ディレイの白百合

Act.2. 〜楽師の街の医師〜

 

 それからというもの、サーフュールは、神殿で行われる礼拝に出席したときには参列者のなかに、街に奉仕活動に出ている聖職者を見かければ白と金色の装束をまとう人々のなかにクローナ家の姫の姿を探すようになっていました。
 市街地東部にある自宅で静養しているラウナス・カルド・イーディンを訪ねた日に見かけた、奉仕活動を行う女神官にまじっていた姫君の姿が忘れられないのです。

「…全く。長はディレイを滅ぼしてしまうおつもりなのか!」
 アルヴェインは苛立ちまじりに書類が散乱している机のうえにグラスを置きました。
「アルヴェイン様?」
 ソリアナールが主君に視線を向けます。
「今度はアリステーゼ姫のために半地下の人工滝を建造されるという。
 滝に光がさしこむ形で建設を進め、しかも景観を最大限に眺望しつつ人にも害にならないような形をご所望という話だから、工事はもとより、シャイアの使用量の方も半端なものではないだろう。
 先月は回転木馬、その前は桜園………
 ―これはまた財務局から叩かれるな…」
「今以上に長のお屋敷にシャイアが必要ということになれば、市民や神殿にも負担を強いることになりますね。」
 エリダイルが父の執務机の空いた場所に本を置きました。
 街の出来事を綴った記録を本の形にしたものです。
「アリステーゼ姫はウィステリア様によく似ておられる。長じれば奥方様のような聡明で美しい姫君になられることだろう。
 長が、亡き奥方の忘れ形見でもある姫君を可愛がられるお気持ちもわからなくはないが、市街の犯罪率の方にも目を向けていただきたいものだ。奥方様のご葬儀以来、物価高と増税は留まることを知らない。犯罪者のなかには負担に耐えかねてそうした行為に手を染めざる得なかった市民も含まれているという事実も考慮していただきたい…
 せめて、少しでも長の自邸の増築熱が鎮まれば助かるのだが。
 これではそのうちにディレイは盗賊の巣窟になり果ててしまうではないか。」
 このままではメリルアンジェにも外出を控えさせるか、常に護衛をつけさせることになるだろうな。」
 アルヴェインは溜息をつきました。
 メリルアンジェが神殿に通い、聖職者とともに市街での奉仕を行っているということはディレイじゅうにあまねく知れ渡っていることです。多くの市民は積極的に民と交わる美しいセライアに好意をよせているのですが、街の治安が悪化するようなことになれば、高貴な家の姫君が護衛もつけずに外を歩いていれば彼女が何らかの事件に巻き込まれる可能性も出てくるのです。
「―そのことについては姫君に打診してみたのですが、姫君が仰言るには”民を信じていれば自分の街を歩くのに警戒心は不要だし、市民に不必要な恐怖心を与えることもしたくのないで、護衛の衛士は不要”との御返答でございました。」
「アンジェらしい返答だな。」
 アルヴェインは、いつもの穏やかな微笑みとともにソリアナールの進言に返答する娘の様子を想像して笑みをうかべました。
「そういえば姫君もそろそろ御夫君の選出について本格的に取り組む頃合ですね。」
「時が経つのは早いものだな…
 これはディレイのみならず、アンジェにとっても一生の問題だ。
 幸い現在のディレイには長の奇行を除けばさしたる問題はなく、セレスやタイスの階級であれば国主の家系のように伴侶となる相手の身分についての限定もない―勿論≪封印貴族≫は問題外だが。
 なれば、リスティメイラとも話しているが、メリルアンジェの婚儀については娘の気持ちを大事にして決めていきたいと思っている。
 仮にアンジェがセライアの名を放棄して神殿に入ることを希望しているとしても、それはあの娘が選んだ将来だ。
 クローナ家の跡取というならば我が家にはエリダイルという息子もいる。
 アンジェがイーラの名を得るときには喜んで祝福したい。」
 ディレイで起きる出来事をまとめた本のなかからアルヴェインが探している箇所を検索するエリダイルも静かに頷き、父の考えを肯定していることを家令に伝えます。

 アーライから来た若い医師が初めてメリルアンジェの姿を見かけてから数ヶ月が経過していました。
 仕事用の鞄を持ってディレイ東部に来ていたサーフュールは、いつしか最初にクローナ家の姫をみかけた場所に立っていました。
 あの日以来、サーフュールは兵営の外での仕事を積極的に受け持つようになっていました。
 その方が街中で活動する神官たちに出会う機会も増えるのです。
―いかん。こんなところで何をやっているんだ!?―
 はっと我に返ったサーフュールはうかびかけた考えをふりはらうように首を横に振るとイーディン邸を目指して歩き始めました。
 目指すイーディン邸はディレイ東部とはいっても、シャイアを入れた籠を持つ神官が通う区画とは少々違う場所にあるのです。
「どけ!」
 ひどく急いでいる男性の声が物思いをふりはらいかけたサーフュールの耳に届きました。声の主はサーフュールをを乱暴に押しのけると、そのまま人の間を縫うようにして走り去って行きます。
「泥棒!誰かその人をつかまえて!」
 続いて聞えたのは女性の声です。
 これを聞いた途端、サーフュールはさっきの男性が何をしたのかを察知し、鞄を抱えたままでさっきの男性を追いかけました。泥棒と叫ばれた男性を追いかているのは彼ひとりではありません。
 もとは女性の持ち物であると思われる鞄を抱えて走る泥棒の逃げ足の方はたいしたもので、サーフュールも含む追跡者を難なく引き離していきます。これだけ距離を離されてしまえば、飾り帯を使って足止めすることも叶いません。
 追いかけられている男性は民家の路地に逃げ込もうとしているようです。
 このままでは完全にまかれてしまいます。
 サーフュールははずみをつけて、持っていた仕事用の鞄を泥棒に向けて投げつけました。
 医師としての仕事の道具が入った鞄はそれなりの重量があるので、標的の人物にうまくあたれば―そしてあたりどころ次第では―泥棒を昏倒させることも不可能ではないでしょう。
「―!?」
 サーフュールの投げた鞄は被追跡者の背を直撃しました。その一撃は彼を昏倒させるまでには至りませんでしたが、少しの時間の足止めには役立ったようです。
 この隙に彼を追う男性たちはその距離を縮め、新たに別の方向からも捕縛の協力者が出てきたのです。
 このぶんだと、治安局から警吏が来るまでには大方のけりがつくことでしょう。
 ほどなく、通報をうけた警吏の者が出てきました。
 警吏が来てくれればもう泥棒の逮捕は決まったも同然です。
 治安局の者は慣れた様子で男性を囲み、少々のもみあいの後に彼を逮捕してしまいました。
「これはあなたのお荷物ですか?」
 警吏のひとりが逮捕した泥棒から押収した鞄を保護している女性に見せました。
「ええ、これです。有難うございます。
 あなたにも感謝します。」
 鞄を取り返した女性はサーフュールにも微笑を向けました。
 彼女は、アーライ人の医療用鞄が逮捕に一役買ったところも見ていたのです。
 サーフュールの鞄もいまは本来の持ち主のもとに戻っています。
 ただ、鞄のなかに入っている薬瓶などがどうなっているかは今のサーフュールにもわかりませんでした。
 鞄を勢いよく投げたうえ、それが人にあたったとなれば鞄にもそれなりの衝撃があったことは考える余地もありません。
 このぶんではおそらく、薬が入っている硝子瓶の幾つかも被害を受けていることでしょう。
 そうなれば、薬については諦めるしかないにしても、せめて一緒に入っている書類に硝子瓶から飛び出した液体の影響が出ていないことを願うしかありません。
 サーフュールは荷物を石畳の道のうえに一旦おろし、持つ手を変えました。
 さきほどの投擲で利き腕を痛めてしまったことに今気づいたのです。
「―腕を痛められましたの?」
 アーライ人の背後から彼に語りかける女性の声がしました。
「いや、大したことはない。わたしも医者だ。
 この程度ならば自分でもどうにかできますよ。」
 サーフュールはそのままで背後の女性に応えます。
「とは仰言いましても…
 いくらあなたが医療に携わる方でありましても、方腕では治療を施すにも不便ですわ。
 マリアーデ女神官、いいかしら?」
「姫君のご予定に差支えがありませんでしたら、わたしどもに異存はありませんわ。」
「有難う。
 でしたら、この方の手当てをしたいのだけど、手伝ってもらえるかしら?」
「もう少し行きましたら飲食店がありますから、そこの奥を借りましょう。」
 マリアーデと呼ばれた女神官とは別の女性が姫の提案に応えます。
―姫だって!?―
 サーフュールは驚いて背後を振り返りました。
 そこにいるのは、女神官のような白いヴェールをつけたクローナ家の姫君でした。
 姫は今日も東地区に来ていたのです…
「クロー家の姫君…」
「そのように畏まる必要はありませんわ。
 こちらで手当てをしますから、暫くお時間をくださいね。」
 メリルアンジェの穏やかな菫色の瞳はサーフュールの方にまっすぐに向けられています。
 この瞳で見つめられれば、きっと魔物の心さえも溶けてしまうことでしょう―

 痛めた腕の治療のために女神官たちと一緒に建物に入ったサーフュールは、女神官たちが持っている道具類なかから必要なものを取り出す間に自分の鞄の中味を確認しました。
 鞄のなかは、ほぼ彼が予想したとおりの状態になっています。
 薬を入れた硝子の小瓶の3分の一ほどは砕けて中身が散っており、液体薬は数枚の書類のインクをにじませています。
「…やっぱりな。」
 さっきの行動の結果を確認したサーフュールは苦笑しました。
「右腕をお出しくださいますか?」
 メリルアンジェが語りかけます。
「―サーフュール・ライデルと申します。姫君。」
「ライデル殿と仰言るのですね。御覧になっている書類はディレイ兵営の書式のようですが…兵営のお方なのですか?」
 メリルアンジェはサーフュールの腕の具合をみながらサーフュールに問いかけました。
「兵営の方でカルドの方々の軍医をやっています。
 先輩からの招きを受けて数ヶ月前にアーライからこちらに来ました。」
「まあ…アーライといえばヴェストゥールの音楽家にとっては聖地ともいえる街だわ。」
 湿布薬を準備している女神官が治療を受けている若者の方を見ました。
「アーライ音楽院は有名ですからね。
 ―といってもわたしは音楽の方はからきしですが。
 確か、卒業生のなかにはディアルド邸のお抱え楽師として活躍している方も数名いるとのことですね。」
「ええ。アリステーゼ姫の音楽の教師もアーライの音楽院出身ですのよ。
 街長様は姫君に音楽以外でも一流の教師をおつけになっていますの。」
 メリルアンジェは湿布薬を手際よくサーフュールの腕に巻いていきます。
 慣れた手つきから察するに、彼女がこうしたことをするのもこれが初めてではないのでしょう。
「ディレイの街長が姫君思いであることは周囲にも知れ渡っていますからね。」
「アリステーゼ姫は7歳のときに母君を失われましたわ。
 街長様は姫君にそのとき以上の不憫な思いをさせまいとして精一杯の愛情をおかけになっていますの。」
「―ディレイの白ゆ…
 いえ、なんでもありません。」
 アーライの医師は慌ててメリルアンジェから視線をずらしました。
 サーフュールの手当てをしている女性は、女神官のようなヴェールをつけて市井に出ているとはいえ、≪パルムの赤薔薇≫として知られている南方の街パルムのフェイラム家のライシェリーゼ姫とともに≪ディレイの白百合≫としてヴェストゥールじゅうに知れ渡っている名家の姫…それもセライアの名を持つ貴婦人です。彼女に求婚する者のなかにはディアルド家やクローナ家に並ぶ名家の子息もいることでしょう。
 市中に流れている噂では、姫は近い将来正式にイーラの名を得る可能性があるといわれているのですが、もしかするとその噂はカムフラージュで、クローナ夫妻はそのなかから既に姫の伴侶となる貴公子を選出しているかもしれません。
 かといって、メリルアンジェが聖職者になることを願っているという噂が本当であるとしても、彼がメリルアンジェによせる想いが報われる可能性は皆無といっていいでしょう。
 聖職者として一生を全うする誓いをたてたものは、同時に生涯独身をとおすことをも誓うことにもなるのですから。
「?」
 サーフュールの様子を見たメリルアンジェは一瞬手を止めました。
 アーライ出身の医師が何を考えているかは彼女にはよくわからないのですが、彼がなにか複雑な気持ちゆえに視線をずらしたことだけは感知できたのです。

 

 

 

Act.3. 〜招待〜
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