◇迷い人・5 〜≪空の水≫〜

 

 サティリエとフェラーダが退室していったことを確認すると、街長は再びアリステーゼに向き直った。
「それで、お前はどのようなデザインがよいのだ?」
 その表情は先ほどとはうって変わってとてもにこやかだ。

 エリダイルはそんなディアルドの父娘のやりとりを複雑な心境で聞いていた。
 ロムル産のドレスといえば中枢都市メレルの宮廷でも好まれている最高級品であり、フォーテイルの全女性の憧れでもある。
 その「ロムルのドレス」という言葉にアリステーゼが反応するのも当然のなりゆきではある。
 しかし、ロムルのドレス一着というものは、額面にすればディレイの民家の何件分かの修繕を補助することが可能なほどの品でもあるのだ。
 自力で家の修繕をすることが困難な民に対して、住居の修繕や引越し等の補助を成すこともまた、「陽の光の元の水」を脅威とするフォーテイル族の街の長の本来の責務のひとつだ。
 しかし、アストラウルがその職務をきちんと果しているかどうかは怪しいところだった。
 ―愛娘の居心地に気を配って、自分の屋敷には労を惜しみなく注ぐのだが…。

 そんなエリダイルの気持ちを知らない街長は、ニコニコとアリステーゼに話している。
 そこでエリダイルはふと気が付いた、アリステーゼの様子がおかしい事に…。
 いつもと変わらず落ち着いた笑顔で父と話をしているのだが、どこか違和感があった。
 話の内容をよくよく聞けば、ドレスについて話しているのは街長だけで、アリステーゼはそれが欲しいとは一言も言っていないのだ。
 それどころか、むしろそれを望んでいないようにも感じられるのは気のせいではないだろう。
 彼女だってロムルのドレスを好んでいるはずなのに…。


「では失礼します」
 一通りの話が済むとアリステーゼは部屋を出てその扉を閉めた。
『で、ドレスについてなんだが…』
 扉の向こうからはまだかすかな声が聞こえてくる。どうやらドレスの事についてはまだ話がついていなかったらしい。
 うつむき加減のアリステーゼは、顔を上げると真正面の宙を見ながら言った。
「エリダイル様。できれば、すぐにでも街の記録を見たいのですが…」
「かしこまりました。して、姫はどの記録をご覧になりたいのですか?」
 アリステーゼの私室ではなく、エリダイルの執務室に足を向けながら問い掛ける。
 その問いにアリステーゼはしばし考え込んだ。
「いろいろと見せていただきたい事柄ははあるのですが、とりあえず、今回はこの街で起こった事件について書かれたものを見せていただけますか?」
「…事件の記録…ですか?」
「ええ」



「あい…失礼、エリダイルのことだ。あなたを不安にさせまいと気を遣うあまりに、あなたに事の詳細を話していないと思うが、いずれはわかることだから説明しておこう」
 アリステーゼがエリダイルを伴って彼の執務室を後にしてから大分経った後、アレクシスはようやくそう言って口を開き始めた。
「まず言っておかなければならないことは、本当ならば知策或いは戦士の技に長けた異世界の若者を召喚するはずだったということだ」
 自ら茴香への説明を買って出た魔法使いは、淡々と説明を始める。
「長は、水のセレンダイル族がその身に持っている宝玉の獲得と水の領域の支配権を得ることを望み、陸と水両方の領域を行き来できる人物の召喚を命じられた」

 ここまでを聞くと、彼がアストラウルの命令に唯々諾々と従ってこの魔法を行ったようにも感じられるのだが、説明にはまだ続きがあるようだ。
 彼がこの魔法に踏みきった真の目的は、単なる「上から命じられた宝探し」で終わることではないようだ。

 だが、そんな中で茴香は口を挟んだ。
「………。話の途中ですが、いくつかお聞きしてもいいですか?」
「どうぞ」
 困惑の表情を浮かべてそう言いだした茴香にアレクシスは嫌な顔一つせずに頷いた。

 根本的な所から日本…地球と違う環境に、茴香は彼らの言っている事一つ一つが理解できないのだ。
 先程彼が話したほんの少しの事ですら、よくわからない事が多い。
 それを察してくれたのか、彼からは自分の疑問に一つ一つに答えようという気持ちが伝わってくる。
 その好意に甘えて一つ一つ聞いていこうと考え、思った事を口に乗せる。

「この街の人は地上にある水に触る事ができないのですよね?最初にこちらに来た時、湖には小舟がありましたが、あれはこの街の人が使用しているものなのですか?」
「あなたが湖を渡る際に使用した乗り物は、学術都市シレギアから入手した書物にあるセレンダイルの舟の絵図をもとにして、今回のために人力、魔法の両方を使って森の木から作成したものだ」
 アレクシスは即座に口を開いた。
「召喚した異世界の方が本当に水陸双方で生きることが可能かどうかを確認するためには、その人物にティセナ湖を渡ってもらい、そして岸の金色の草原に立ってもらう必要があったのだ」
 フォーテイルにも舟はあるのだが、その舟はいい意味で使われることはない。
 故に、異世界の客人の心理を思うならば対立する種族のものを参考にせざる得なかったのだ。
「それでわざわざあの島に…」
「湖を渡る最中にセレンダイルが現われれば、召喚した者の器量もはかれると考えていたのだ。―が、力ある男性ならばまだしも、姫君には本当に酷な方法を使った。すまない」
 召喚する相手を男性に限定していなかったのならば、もう少し方法に気を遣っていただろう。
「いえ、あなた方の目的がどうであれ、結果として私は襲われませんでしたから。………気にしないで下さい」
 茴香は幾分複雑な想いを抱えつつもそう答え、小さく微笑む。
 その笑みに少々落ち込んだ様子の彼の表情も少し緩んだ。
 それを確認して、茴香は次の質問を投げかける。
「セレンダイル族という方々は、人型…私たちと同じ姿をしているのですか?」
 茴香は、セレンダイル族は湖底…水の中に住むと聞いていたから、てっきり人魚みたいなものだと考えていたのだ。
 だけど、彼は『セレンダイルの船の絵図をもとにして〜』と言った。
 …と言う事は、そのセレンダイル族とやらも船を必要とする姿をしているという事なのだろうか?
「―言葉よりも絵図面の方がわかりやすいかもしれないな」
 アレクシスは立ちあがり、エリダイルの本が詰まっている書棚に向かった。
 ディレイは水際の街の為、万一の時を考えてセレンダイル関連の書物なども保管しているのだ。
「たしかこのあたりだったが…ああ、これだ」
 アレクシスは1冊の本を取り出し、テーブルに持ってくるとページを開いた。
 片方のページには白っぽい服を着た男女が描かれ、もう片方には文字が綴ってある。
 湖で優雅に戯れているような男女の姿はフォーテイルと大差はない。
 しかし、ひとつ明らかな相違があった。
 絵の中の二人は双の瞳と同じ色の宝石をその身の一部として持っているのだ。
「これがセレンダイル姿の姿だ。こっちのページは絵の解説になっている」
 アレクシスは絵の中の、水そのものにも似た繊細な透明感を持つ二人を示した。
 その絵の示すものがよくわからず、茴香は首を傾げる。
「…あなた方の長が狙っているのがこの宝石なんですか?それにしてもこの姿は…?」
 その絵に描かれた額の石を指差しつつ問い掛けると、アレクシスは頷いた。
「ああ、長が狙っているのはこの石だ。この石は彼らセレンダイルにとっては体の一部。そのためか、この石は地上に存在するどの宝玉よりも美しく輝く。また、それ自体に強い力が宿っているため、それを利用しようとする者が多い。そして…」
 そこで一度言葉を切り、アレクシスは静かな声音でこう付け加えた。

「セレンダイルにとって体の一部であるこの石を奪われれば、彼らのその命は失われる」

「っ!!」
「この透明な姿は彼らが石を奪われた後の姿を描いたものだ。…彼らは石を奪われると水となって消えてゆく」
 茴香は息のんだ。愕然として一瞬うつむいた後、顔を上げた。
「それで…長は、彼らの命がなくなる事を承知でそれを狙っているのですか?」

 アレクシスは少し間をおいた後、小さく頷いた。
「無論、知っているだろう」
 そこまで欲しいと思うほどの魅力がその石にあるのだろうか…と茴香はまたうつむいた。

「フォーテイルはセレンダイルの額の石を求め、セレンダイルも我々フォーテイルの世界に存在する何かを狙っている。争いが絶えることは無いな…」
 アレクシスは部屋の隅にある椅子にゆっくりと腰を下ろした。

(アル、ティエラ、レド、ロン、マデール…)
 茴香は小声で呟いていた。
「それは何だ?」
 椅子に腰掛けてひと息ついていたアレクシスが向き直って問い掛ける。
「分かりません。うまく言えないのですが、何か、こう…、勇気が湧いてくるような…」
「………私はそれを耳にするのは初めてだ。古代の呪文かもしれんな。或いは使用を禁じられているものか…?」
 茴香が発した1節の言葉は、かなり古い時代―まだフォーテイルとセレンダイルを大きく隔てる水際の金色の草の野が存在しなかった頃に使われたきりのものなのだ。
 現在となっては、その詳しい内容は魔法使いや神官の最高位者の間でさえ知られていないといっていいだろう。
 勿論それはアレクシスも例外ではない。
「―ところでキョウカ姫、あなたの学問所で傑出した能力を持つ若者といえば誰の名をあげる?あなたを召喚した術はあなたの学問所と強く結びついているようだから、その範囲内であれば大きな危険もなくあなたが紹介した勇者をディレイに召喚することが叶うはずだ」
「………召喚?」
「これはやりかた次第では戦いをも招きかねない仕事だ。やはり姫君には荷が重すぎる」
「私の学問所…学校の事ですか?」
 茴香の問いにアレクシスは頷いた。
「…学校で傑出した能力を持った人って言われても…」
 突然の問いかけに茴香は口を閉ざした。

 大人数が集まる学校の事、もちろん周囲から「天才」や「優秀」と呼ばれる人物は幾人かいる。
 だけど、彼は自分が挙げた人物を、自分にやったようにここに呼び寄せようと言うのか…。
 しかも『戦いも招きかねない仕事』…そんなものに何も知らない人物を巻き込もうとこの男は言うのか…。

「ふざけないでっ!!」

 次の瞬間、茴香は部屋の外にまでも響き渡ろうかという声で怒鳴っていた。全身がワナワナと震える…。
 こっちの世界の事はよく分からないから綺麗事なんて言うつもりはない。だけど、自分たちの中の事に全く関係のない世界の者を巻き込もうとする考え方が許せなかったのだ。

 いったいその声はどこまで届いたのだろう。
 その時、アレクシスは窓の外の様子がおかしい事に気づいた。
 どす黒い物体が空を覆い始め、ディレイの街から光を奪い、街全体が薄闇に包まれている。
 そして、程なくして屋敷全体が突然轟音に包まれた。

「なっ、なんだ!!水!?水が?空からっ!?」
 アレクシスは突然の事態に慌てた。
 そんな傍らで、茴香は全身を震わせ小声で何かを呟いていた。

「いかん!」

 思わぬ事に戸惑っていたアレクシスはようやく気を取り直すと、反射的に杖を手にして椅子から立ちあがった。
 そして窓を開けると杖を掲げて何やら呪文を唱え始める。
 魔法使いにだけわかる言葉の詠唱はやがて天にのぼり、やがて雨水は天に留まった。
 アレクシスはディレイの領域全土に魔法のシールドをかける形で突然の豪雨を遮ったのだ。
 だが、いくら彼がディレイの魔法使いの司であるといっても術を継続できる時間には限りがある。しかし、彼の住居に住む魔法使いたちもこの事態に気けば何らかの手段を講じるはず。
 アレクシスが外に出ている上、シルヴィナも召喚の魔法の影響で床に伏しているとはいっても、そこで起居している者は皆、それなりに魔力を有している。
 そんな者たちが同じように魔法を使えば、外に出ている人々が避難し終えるまで効力を継続させることはそう難しくはないだろう。

 魔法使い達が必死にシールドを張って持ちこたえる中、これまで古代の歴史書の中でしか存在しなかったはずの『雨』はやがて収まり、空には徐々に光が戻りつつあった。
 そんな頃、茴香の方は思いもがけぬ事態にさらされていた。

「禁断の呪文を操り、はるか古にセレンダイルの神と共に封印されし『雨』を呼び覚まし、我々フォーテイルに災いをもたらす輩よ…。さては、セレンダイル共の手先か!」
 激昂する屋敷の者の手によって茴香は街長のもとへと連れ出されていたのだ。

 突き出された茴香を一瞥したアストラウルは途端に顔をしかめ、その場にいる全ての者に聞こえるようにと大きな声でこう言い放った。
「即刻、牢に閉じこめておけ」
 その言葉に茴香を束縛していた兵達は一度頭を下げると、茴香を連れてその場を後にした。


 なぜ、こんなことになったのだろうと、茴香は牢獄でうつむいていた。まさか、自分が牢獄に入るなどと夢にも思わなかったからだ。

「私は何もしていないのに…」
 冷たい牢獄は、茴香の恐怖心を一層高ぶらした。その時、考えないようにしていた感情が蘇った。

 帰りたい、という感情だった。


 その時、牢獄の外から声がした。
 この地下には幾つかの牢獄あるようだったが、自分以外、人のいる様子はなかった。
 この地下に通じる出入り口付近には茴香が入った以後、見張りか何かで男性が立っている様子だったが、その声はその者のものではない事は明らかだった。
 聞こえてきたのは男性のものではなく、女性のものだったから…。

「キョウカさんっ!!」
 突然牢獄の前にあらわれたのはアリステーゼだった。
「逃げましょうっ!」
 アリステーゼは牢獄の扉を開いて中に入ってきた。
 目を白黒させる茴香に構わず、アリステーゼは茴香の腕を掴み地下を抜け出した。
 見張りに立っていたらしい男性が倒れているのを横目に見ながら…。

 アリステーゼをよく見ると、結い上げた金色の髪を飾っていた美しい布は腕にかけられている。 おそらく、見張りを昏倒させるために飾り帯を使ったのだろう。
 あの布が武器になる所を茴香はほんの数時間前に目にしていた。エリダイルの屋敷の前で…。
 だが、アリステーゼにこのようなことができるというのは、茴香にとっては驚きだった。
「これはフォーテイルであれば誰でも、子供の頃に学び舎か家庭教師などから会得するのよ。侍女の手を借りなくても寝台の中でナイトテーブルの本をとることもできるから便利ね」 アリステーゼはそう言って、茶目っ気のある笑みを見せた。

 二人が向かったのはアリステーゼの私室がある一画だった。
 ここには、アストラウルが娘の客のために作った部屋も備わっているのだ。
 ディレイの長は娘に外出を禁じてはいたが、彼女が誰かを招くことについては、彼の目に叶う者であれば大きな反対はしないのだ。

 二人は急いでそこに向かった。とにかく今は逃げるのが先決である。

 逃げながらも、茴香は少し疑問をもった。
「アリステーゼさん…。どうして助けてくれたのですか?」
 アリステーゼは茴香にあらためて向き直り微笑した。
「あなたには助けてもらったから…」
 茴香は何のことかと思い、一度考えた後、思い出した。
「あ…。あの時の?」
 アリステーゼはまた微笑をして、コクリとうなずいた。

  階段を上がって屋敷の一階の隅にアリステーゼの私室となっている部屋がある。
 アリステーゼはまるでこんな事になることを想定していたかのように、厨房から持ち出した保存食や、私室にあった毛布やランプなどを革製の背負い袋に詰め込み、いつでも旅に出られる様な支度を整えていたのだ。
 袋の中には何か重要な書物なのか知らないが、分厚い本の様な物も見受けられる。
「準備は整っているの。あとは、エリダイル様に見つからない様にうまくディレイを脱出できれば…」
 確かに、このままアリステーゼと茴香が屋敷を抜け出すこと自体は簡単だ。
 しかし、あのエリダイルの事だ。何か嫌な予感がする。

「―待って、人の声がする。何かあったのかな?」
 茴香はアリステーゼを遮って庭に出た。
 アリステーゼ専用の庭には様々な花が咲き、室内に劣らず美しく贅沢に整えられている。
 微かな人の声に導かれた茴香は、洒落たあずま屋―姫君が時折お茶を楽しむのに使う場所―にたどりついた。
 そこにいたのはディアルド家の庭師のと思える男性だった。
「アリステーゼさん、お医者さんか誰か…とにかく人を呼んでっ!」
「キョウカさん、どうしたの?」
「怪我をしている人がいるの!大変…あなた、大丈夫ですか!?」
 茴香が見つけた男性は、さっきの雨から逃げ遅れてこんな状態になっているのだ。
 このような状態の人を放っておくなど、通常の神経の持ち主であれば到底不可能だ。
 アリステーゼは一瞬考え込んだ後、サティリエとフェラーダのみを呼んだ。
 さほど待つほどなく二人は姿を現し、主人の隣にいる茴香の姿に酷く驚いた様子であった。
 そして、二人はぼそぼそと何か話したかと思うと、サティリエは一度その場を去っていった。
 それを気にする間もなく、フェラーダを中心にアリステーゼと茴香は男性を介抱する。
 三人で彼を部屋の中にやっと運び入れた頃、サティリエは何かを携えて戻ってきた。そして、開口一番にこう言った。
「フェラーダも一緒にお逃げください」
 彼女はそう言って持っていたものをフェラーダに預ける。
「彼の事はお任せください。どうか外に出て、ご自分の目で世界を確めてください。そして自分がどうして行くのか、自分でお決めください」
「でも…」
 怪我人を放って行くことに戸惑いを覚えるアリステーゼと茴香をフェラーダは有無を言わさずに促して歩き出した。
「男性だけに様々な権利が与えられているのはどこかおかしい。女性にも様々な権利が与えられて当然のはずです…」
 遠ざかる三人の耳にサティリエのそんな呟きが微かに届いた…。

 ふたりの姫の先に立って歩きながら、フェラーダは彼女の家族のことを考えていた。
 今アリステーゼがここを出て、自分もそれに従うことになるのならば、家には祖父の薬代や学び舎に通う幼い弟と妹の学費などの金銭を工面する人がいなくなる。
 とはいっても、そうしたことを姫に打ち明ける気にもなれない…

 遠くから騒ぎ声がしたのはちょうどその時だった。
 騒ぎの内容をよく聞いてみると、茴香の召喚と誰かの逮捕のことを言っているようだ。
「―駄目!止めないと大変なことになる!」
 騒ぎが何であるかに気付いて顔色を変えたアリステーゼは、茴香とフェラーダが気付くよりも早く身を翻し、広間のひとつがある方向をめがけて一直線に駆け出した。
 突然のことで何のことだか分からず、茴香はアリステーゼを目で追った。その後、フェラーダがようやく騒ぎの原因に気づき、茴香を後へ回らせた。
 茴香はまだ状況が飲み込めず、静かに息をのんだ。

 その時、アリステーゼの走る軽やかな足音が止まった。
「あ、あの…。アリステーゼさんは…」
 フェラーダは静かに口元へ人差し指を当てた。「静かに」ということだと茴香はすぐに察し、口を噤んだ。

「何を騒いでいるのです?」
  アリステーゼは近くにいた数名の者に声をかけた。
「姫君。見苦しいところをお見せいたしました。先ほどセレンダイルの者が逮捕されたとかで―」
「そのことね。その件は私も聞いていますが、あなたたちは大切なことを忘れています。過去にこの世界に召喚された大魔法使いが私たちのために作ってくれたと言われている、湖岸の金色の草の原に焼き滅ぼされることのないセレンダイルがいるなど聞いたこともありません」
「で…ですが…」
「きっとお父様は、先程の空の水に動転なさるあまりに、先日自らがアレクシス殿に命令なさった異世界人の召喚の件を忘れておいでなのね…」
「ではこの逮捕騒ぎは―」
「根も葉もない噂です。今この街にセレンダイルなどがいるはずはありません」
「そ…そうですか…」
 きっぱりと言い切るアリステーゼの様子にその場に居た者はそれぞれに表情を緩ませた。
 まだそれぞれの中に戸惑いはあるようだが、先程までのピリピリとした緊張感はなくなっていた。



 一方、思わぬところで休憩時間をとれた為か気持ちが少し落ち着いた茴香は、さりげなく周囲を見回した。
 ざっと見ただけでも、ここがどれほどに贅を凝らした場所であるかが改めて確認できる。
 エリダイルの屋敷にいたときに彼女が使っていた部屋も邸宅の部屋と呼ぶに相応しく、女性への気配りも行き届いた場所であったが、ここはその雰囲気もしのぐものがある。
 それもそのはずだ。
 ここはアストラウルがアリステーゼのために、何をつぎこむことも厭わずに作り上げた場所なのだから。
 おそらく現在のディレイにはここよりも豪奢な場所は存在しないだろう。
 アリステーゼはこの壮麗な空間で成長してきたのだ―



「あ、金色の草といえば…、今日、ロイさんはもうお見えになられましたか?」
 アリステーゼは部屋を出て行こうとする侍女に何気なく尋ねた。
「今日中に7台の馬車を連ねてのご到着とのことですが、まだお着きになっておりません」
 アストラウルが対岸の街から金色の草を買い入れる際、その仲介人として派遣されてくるのが、カルティスの行商人でロイと名乗る男だ。
 しかし、その風貌のせいか悪い噂が絶えず、カルティスに拠点を置く金色草…シャイアの密売組織の一員なのではないかとも言われている。
 …が、実際のところ彼が何者なのかはよく分かっていない。
「ロイ殿がどうかされましたか?」
 侍女が首をかしげる。
 それにアリステーゼは慌てて首を横に振った。
「何でもないの、気にしないで頂戴」
「そうですか…。では、私達は仕事に戻ります。お騒がせして申し訳ありませんでした」
 侍女は深々とお辞儀をすると、先に出て行った他の者を追いかけるかのように部屋を出て行った。

 当面はこれ以上「キョウカの正体はセレンダイルではないのか?」という噂が広まる心配はしなくていいだろう。
 仮にそうした噂がまだ邸内に流れているとしても、さきほどの者たちの様子を見れば、彼らが先程のアリステーゼの言葉を使って偽りの噂を鎮めてくれることが期待できる。
 金髪の姫は茴香とフェラーダの待つ部屋に戻ることにした。二人とはこれからの相談もしなくてはならない。
「まだ何かあるので…お父様、なぜここに?」
 別の靴音を感じて振り返ったアリステーゼの瞳に映ったのはアストラウルの姿だった。
 さっきの空の水が娘に影響を与えていないかと思う一心で、政務さえ忘れてここに来たのだろう。
「先程の影響がないかと思って来てみたが無事なようだな。安心した。この様子だと、このあたり一帯も無傷ですんだようだ」 そう言うアストラウルの顔には安堵の表情が浮かんでいた。
 そして、それによって冷静になったのか、ふと思い出したかのようにアリステーゼにこう告げた。
「おまえの客間は近々ディレイに来るシレギアの学問所の客人の接待に使うことになるからな。あの学術都市の使者と対等に会話ができるのはディレイ広しといえどおまえだけだ」
「シレギアの?それはまた急ですね」
「シレギアの博士課のディレイ分院の着工を予定していることは知っていると思うが、その場所を使者たちとおまえに選んでもらおうと思ってな。おまえもシレギアの書物は愛用しているだろう?分院がディレイにあれば書物を購入する手間も省けるようになるだろう」
 アストラウルのこの言葉は娘可愛さだけのものではない。
 聡明なアリステーゼはシレギアの学問所の使者たちと対等に論議を交わすことのできる数少ないディレイ人のひとりなのだ。




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絵画「≪空の水≫」
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参加者:れいあさま 瑞穂さま
ミントブルーさま ミール・エア・リーデ 
編集:れいあさま

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